かわらばん取材記~木母寺編

今回の「オガワホームかわらばん」の取材先は、日本の中世へのロマンへ思いを馳せようか・・ということで、「梅若伝説」の舞台として知られる東京都墨田区の木母寺へ行って参りました。
云い伝えによれば平安時代中頃の976(貞観元)年に伝説の主の墓「梅若塚」が作られ翌年梅若堂が建立されたそうなので、1000年以上も昔の世界をさまよってみようというわけです(ただ かわらばん記事によれば、実際ロマンに浸っていたのは私だけだった模様)。

左下は梅若塚。もちろん本当の墓ではなく最近のものです。右下は明治期の梅若堂の内部です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて梅若伝説の悲劇はおよそ次のような話です。京都でも一,二を争う大変な秀才の少年梅若丸が比叡山での修行中に人買いにさらわれ、奥州方面へ連れていかれてしまいます。衰弱しきった梅若丸は隅田川まで来たところで置き去りにされ、そのまま息絶えました。12歳で詠んだ辞世の句は

「たづね来て 問わばこたへよ都鳥 すみだの河原の露ときえぬと」

だそうです。これは伊勢物語で有名な句、

「名にしおはば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありや無しやと」

に呼応した句になっています。レトリックが冴えています。悲しき天才少年です。
一方、息子を探して気も狂いつつ隅田川までたどり着いた母、花御膳は、柳の木の下の塚で念仏を唱える里人を見て、渡し船の船頭に尋ねたところ、それが息子梅若丸のためであることを告げられます。

結末はいくつかあるようですが、能楽「隅田川」では、息子の死を知り愕然とした母も念仏の一群に加わります。すると母にの目の前に息子が亡霊となって現われます。母は愛しい息子の姿を見つけて追いかけ、抱きしめようとすると消え、また抱きしめようとすると消え・・・、夜が明けてみると追いかけていたのは浅茅が原の塚に生えた草だった、という涙を誘う結末となります。

 

下は現在の木母寺近辺の写真です。草生い茂る茫漠たる光景だけが、いにしえの物語の舞台の面影を伝えているかのようです。その当時への想像が膨らみます。

 

私は数年前に初めて能「隅田川」を観ることが叶ったのですが、下の画像がその時のプログラムの表紙です。梅若伝説は能楽、浄瑠璃、舞踊作品となった他、西洋でも影響を受けた作曲家ブリテンがオペラ「カリュー・リバー」に翻案しました。

梅若伝説は長く語り伝えられ、舞台となった梅若塚は寺となり信仰の対象になりました。それが「梅」の字をくずして木母寺と称されるようになったのは江戸時代のこと、現在残っている梅若堂は明治時代の遺構です。

梅若堂のある木母寺は元々「白髭防災団地」の一角に位置していましたが、同団地建設のため現在地に移転、その際梅若堂は防災上の措置として下のような鉄骨造で不燃化された「鞘堂(さやどう)」で覆われました。

江戸時代には梅若山王権現として信仰を集めていました。中でも「蛇身弁財天」(下)は、ひと目見たら忘れられません。

最後に、別の意味で悲劇が最近にまで及んでいたことを知りました。梅若堂の外壁には、第二次大戦の空襲で受けた機銃掃射によると思われる無数の痛々しい弾痕が刻まれています(左下)。そこでまたもや無数の親子の絆が引き裂かれたであろうことを思うとぞっとしました。

ただ、ささやかな救いとして、脇におられる「身がわり地蔵尊」(右下)が身代わりになって人々を救ったという言い伝えもあるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かわらばん取材記~木母寺編

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